ナミマチブログ

BeStokeの始まり 第三章  線から輪へ

BeStokeの始まり 第三章  線から輪へ

Kanenari Sakamoto

繋がりから生まれる輪   BeStokeの始まりは、僕とよういち、亘(日本在住、オーストラリアワーキングホリデー時代の悪友)との話し合いからでした。 SJS Custom のスコティーは、自分のサーフボードを日本に紹介したいけど手段がない。 実際に試乗して、Sjsサーフボードが調子いい事を知っている、よういちと何かいい方法はないかといろいろ話している時、よういちと、亘が手伝ってくれるなら、僕が代表となり、BeStoke/Sjs Custom Japanをやろうと言う事で話が進み新しいプロジェクトがスタートしました。 僕自身は、それまでずっと自動車の塗装業に携わってきた職人で、サーフボードやブランド作りのことはまったくの未経験。 右も左もわからないことだらけでしたが、とにかく「やってみよう」という気持ちだけで走り始めました。 今その時の自分を振り返ると、年齢的に(ミドルエイジクライシス)で折り返した残りの人生をどう生きるのか迷っていたタイミングでもあったと言えます。 当初、スコティーとはメールでのやりとりだけで、どんな人物なのかもいまいち掴めていませんでした。 そこで「一度ちゃんと会ってみよう」ということになり、日本から亘(悪友)、ニュージーランドから僕がそれぞれゴールドコーストへ向かい、よういちとスコティーの Sjs Customボードファクトリーを尋ねることになりました。   スコティーの家に招かれた僕は、段取りが良く整理整頓されたボードファクトリー、自宅の 綺麗に刈られた庭の芝生を見た途端にか彼の全てが伝わった気がしました。 彼はまず緊張気味の僕たちを庭に誘って川でカヤック遊びをしたり、ビール片手に庭の菜園を説明してくれ、僕たちを和ませてくれました。 そして夜のディナーの時に、「どういったプロジェクトでやるか」という改まった話ではなく、 「友人として、人生の一環として一緒にやろう」 そんな自然な流れで方向性が固まっていきました。 スコティーはその夜、大量の唐揚げを揚げてくれました。 彼にとって唐揚げは世界一好きな食べ物らしく、その笑顔が場をより一層温かいものにしてくれました。 お酒を飲みながら夜が更けていき、少し肌寒くなった頃、スコティーと彼の奥さんから僕たちにSjs customのパーカーとTシャツが手渡されました。 「これで君たちはもうクルーだよ。」 その瞬間、ただの点と線だった出会いが、ひとつの大きな「輪」になったのです。 ここからBeStokeの物語が、本格的に始まりました。

BeStokeの始まり 第三章  線から輪へ

Kanenari Sakamoto

繋がりから生まれる輪   BeStokeの始まりは、僕とよういち、亘(日本在住、オーストラリアワーキングホリデー時代の悪友)との話し合いからでした。 SJS Custom のスコティーは、自分のサーフボードを日本に紹介したいけど手段がない。 実際に試乗して、Sjsサーフボードが調子いい事を知っている、よういちと何かいい方法はないかといろいろ話している時、よういちと、亘が手伝ってくれるなら、僕が代表となり、BeStoke/Sjs Custom Japanをやろうと言う事で話が進み新しいプロジェクトがスタートしました。 僕自身は、それまでずっと自動車の塗装業に携わってきた職人で、サーフボードやブランド作りのことはまったくの未経験。 右も左もわからないことだらけでしたが、とにかく「やってみよう」という気持ちだけで走り始めました。 今その時の自分を振り返ると、年齢的に(ミドルエイジクライシス)で折り返した残りの人生をどう生きるのか迷っていたタイミングでもあったと言えます。 当初、スコティーとはメールでのやりとりだけで、どんな人物なのかもいまいち掴めていませんでした。 そこで「一度ちゃんと会ってみよう」ということになり、日本から亘(悪友)、ニュージーランドから僕がそれぞれゴールドコーストへ向かい、よういちとスコティーの Sjs Customボードファクトリーを尋ねることになりました。   スコティーの家に招かれた僕は、段取りが良く整理整頓されたボードファクトリー、自宅の 綺麗に刈られた庭の芝生を見た途端にか彼の全てが伝わった気がしました。 彼はまず緊張気味の僕たちを庭に誘って川でカヤック遊びをしたり、ビール片手に庭の菜園を説明してくれ、僕たちを和ませてくれました。 そして夜のディナーの時に、「どういったプロジェクトでやるか」という改まった話ではなく、 「友人として、人生の一環として一緒にやろう」 そんな自然な流れで方向性が固まっていきました。 スコティーはその夜、大量の唐揚げを揚げてくれました。 彼にとって唐揚げは世界一好きな食べ物らしく、その笑顔が場をより一層温かいものにしてくれました。 お酒を飲みながら夜が更けていき、少し肌寒くなった頃、スコティーと彼の奥さんから僕たちにSjs customのパーカーとTシャツが手渡されました。 「これで君たちはもうクルーだよ。」 その瞬間、ただの点と線だった出会いが、ひとつの大きな「輪」になったのです。 ここからBeStokeの物語が、本格的に始まりました。

BeStokeの始まり 第二章 点から線へ

BeStokeの始まり 第二章 点から線へ

Kanenari Sakamoto

ニュージーランドタラナキ地方でサーフボード制作をしているシュンちゃんは、家族で日本へ一時帰国することになり、その経由地としてオーストラリア・ゴールドコーストに5日間ステイする予定ができました。 シュンちゃんは、そのことをSjs Customのスコティー・ジェームスに伝え、 「ぜひ遊びに行きたい」とメッセージを送りました。 するとスコティーは快く応じてくれました。 ゴールドコーストには、僕が過去にオーストラリアにワーキングホリデー中に青春を共に過ごした、 サーフィン系YouTuber「よういちチャンネル Spirit Kooks」のよういちがいました。   彼は過去にタラナキを訪れたこともあり、しゅんちゃんとも面識があったので、彼らは連絡を取り合いついに、 シュンちゃん、スコティー、よういちの3人がゴールドコーストで出会うことになったのです。 サーフィン好きの3人が集まれば、もちろん話は尽きません。 波のこと、ボードのこと、シェイピングのこと…サーフィン談義に花が咲いたと後日聞きました。 帰り際スコティーは、よういちに僕のボードに乗ってみなよと言い、6本のサーフボードを持たせたそうです。 (自分のサーフボードを試乗しなよって、その本数を初めて会う人間のに預ける、気前が気持ちいいです)   早速ホームポイントで試乗したよういちは、そのボードにすっかり魅了されました。 「癖のある見た目なのに、乗り味に全く癖がなく、調子がいい」 そう強く感じたと言い、Sjs Custom サーフボード にすっかり惚れ込んだそうです。 同時に、「この良さを日本のサーファーにも届けたい」という思いが芽生えたとも話していました。 その話を後日聞いた僕は、心を動かされました。 良いものを作る職人の手仕事―クラフトマンシップが宿った道具。もちろん使い心地も抜群。 テクノロジーが進化し、AI社会で失われつつある“手仕事”の価値。   そういうものが昔から好きだった僕にとって、この出来事は新しいチャレンジへのきっかけとなりました。 「Sjs Custom...

BeStokeの始まり 第二章 点から線へ

Kanenari Sakamoto

ニュージーランドタラナキ地方でサーフボード制作をしているシュンちゃんは、家族で日本へ一時帰国することになり、その経由地としてオーストラリア・ゴールドコーストに5日間ステイする予定ができました。 シュンちゃんは、そのことをSjs Customのスコティー・ジェームスに伝え、 「ぜひ遊びに行きたい」とメッセージを送りました。 するとスコティーは快く応じてくれました。 ゴールドコーストには、僕が過去にオーストラリアにワーキングホリデー中に青春を共に過ごした、 サーフィン系YouTuber「よういちチャンネル Spirit Kooks」のよういちがいました。   彼は過去にタラナキを訪れたこともあり、しゅんちゃんとも面識があったので、彼らは連絡を取り合いついに、 シュンちゃん、スコティー、よういちの3人がゴールドコーストで出会うことになったのです。 サーフィン好きの3人が集まれば、もちろん話は尽きません。 波のこと、ボードのこと、シェイピングのこと…サーフィン談義に花が咲いたと後日聞きました。 帰り際スコティーは、よういちに僕のボードに乗ってみなよと言い、6本のサーフボードを持たせたそうです。 (自分のサーフボードを試乗しなよって、その本数を初めて会う人間のに預ける、気前が気持ちいいです)   早速ホームポイントで試乗したよういちは、そのボードにすっかり魅了されました。 「癖のある見た目なのに、乗り味に全く癖がなく、調子がいい」 そう強く感じたと言い、Sjs Custom サーフボード にすっかり惚れ込んだそうです。 同時に、「この良さを日本のサーファーにも届けたい」という思いが芽生えたとも話していました。 その話を後日聞いた僕は、心を動かされました。 良いものを作る職人の手仕事―クラフトマンシップが宿った道具。もちろん使い心地も抜群。 テクノロジーが進化し、AI社会で失われつつある“手仕事”の価値。   そういうものが昔から好きだった僕にとって、この出来事は新しいチャレンジへのきっかけとなりました。 「Sjs Custom...

BeStokeの始まり 第一章 点と点

BeStokeの始まり 第一章 点と点

Kanenari Sakamoto

  BeStokeの始まりは、一つの出会いからでした。 最初に登場するのは、僕が住んでいるニュージランドのタラナキ地方で、サーフボードを制作している友人のシュンちゃん。 (彼は自動車の整備士でもあり、ニュージランドトヨタのベストメカニックに選ばれる程の技術者でもある) https://www.instagram.com/shun_garage_shape?igsh=cnhmcXFuZWh5b3h0 彼がサーフボードのシェイピングを始めた頃、世界中の気になるシェイパーたちにInstagramでDMを送り作り方やノウハウを尋ねていました。 当たり前かもしれないですが、多くのシェイパーは自分が積み重ねてきた技術を他人に教えることはなく、DMの返事はほとんどありませんでした。 そんな中で唯一違ったのがオーストラリア、ゴールドコーストのSjs Customスコティー・ジェームス。 彼は、シュンちゃんのDMに毎回必ず返信してくれ、シェイピングのコツや作り方を惜しみなく教えてくれました それは単なる技術の伝達ではなく、サーフィンのカルチャーの根底に息づく『オープンな心』体現しているようでした。 シュンちゃんから、その話を聞いたとき、 疑うことで、自分を守る人生を送ってきた僕は(過去のブログ「信じる事って心地良い」より) 「自分で培った技術をこんなにオープンにできる人間がいるんだ」 「こんなマインドの人がいるなんて、僕もこういう人間になりたい」 そう強く感じました。 こうして生まれた一つの点。 その出会いが、BeStokeの物語の始まりとなったのです。

BeStokeの始まり 第一章 点と点

Kanenari Sakamoto

  BeStokeの始まりは、一つの出会いからでした。 最初に登場するのは、僕が住んでいるニュージランドのタラナキ地方で、サーフボードを制作している友人のシュンちゃん。 (彼は自動車の整備士でもあり、ニュージランドトヨタのベストメカニックに選ばれる程の技術者でもある) https://www.instagram.com/shun_garage_shape?igsh=cnhmcXFuZWh5b3h0 彼がサーフボードのシェイピングを始めた頃、世界中の気になるシェイパーたちにInstagramでDMを送り作り方やノウハウを尋ねていました。 当たり前かもしれないですが、多くのシェイパーは自分が積み重ねてきた技術を他人に教えることはなく、DMの返事はほとんどありませんでした。 そんな中で唯一違ったのがオーストラリア、ゴールドコーストのSjs Customスコティー・ジェームス。 彼は、シュンちゃんのDMに毎回必ず返信してくれ、シェイピングのコツや作り方を惜しみなく教えてくれました それは単なる技術の伝達ではなく、サーフィンのカルチャーの根底に息づく『オープンな心』体現しているようでした。 シュンちゃんから、その話を聞いたとき、 疑うことで、自分を守る人生を送ってきた僕は(過去のブログ「信じる事って心地良い」より) 「自分で培った技術をこんなにオープンにできる人間がいるんだ」 「こんなマインドの人がいるなんて、僕もこういう人間になりたい」 そう強く感じました。 こうして生まれた一つの点。 その出会いが、BeStokeの物語の始まりとなったのです。

タヒチトリップ 危機的状況から得たもの

タヒチトリップ 危機的状況から得たもの

Kanenari Sakamoto

今回のタヒチ旅行は、人との出会いと全てのタイミングが完璧で本当に恵まれた旅でした。 9泊10日の滞在の中で4ラウンドサーフィンでき、リーフブレイク、ビーチブレイクどちらも良い波あてて、気持ちの良いローカルの人たちと出会い、笑顔の絶えない日々。まさに理想的な旅だったと思います。 でも、旅の最後には予期せぬハプニングが待っていました。 最終日の夜11時、一緒に行った友人が宿泊先のデッキから足を踏み外し、落下して1メートル下のコンクリートに頭から落ち、僕が気付いた時には気絶して、イビキをかき、更に耳から流血している状態でした。 僕たちはパニックになり、友人が隣の家のドアを叩き救急車を呼んでもらい、搬送してもらいました。 フランス語圏のタヒチで、僕たちは言葉がほとんど通じず、救急車を呼んでくれた隣に住む優しいおばちゃん助けがなければ、もっと大変な状況になっていたかもしれません。今振り返るとおばちゃんは、もう就寝していて、着の身着のままで助けてくれて上はTシャツ、下はパンツ姿でした。 一度近くの病院に搬送せれ、ドクターチェックしたのですが、大きい病院での処置が必要とされ、また救急車で搬送してもらい、CTスキャンを取ることになりました。幸い脳にダメージは無く、ホッとしましたが、彼はまだ落下の衝撃で意識が朦朧としていて、記憶障害があったため入院することになり、彼の奥さんが現地に残り、僕たちは一足早く帰国することになりました。 心配ではありましたが、彼が無事に回復に向かっていると聞き、本当にホッとしました。 怒涛の最終日を終えて、飛行機に乗った途端に緊張が解けて、僕は離陸したのも分からないほど寝落ちしていました。 こうした大きな出来事があると、改めて「人生って何だろう」と考えさせられます。 良い事も悪い事も、時間が経てばすべてが勉強材料。 その出来事をプラスにするか、マイナスにするかは、自分の心の持ちよう次第だと思います。 今回のタヒチ旅は波、出会い、そして最後のハプニングを含めて、すべてが大切な経験でした。 人生において本当に大事なことは何か、答えは一生見つからないと思いますが、今ある状況に感謝して、楽しみながら生きる。 『一度きりの今の時間を気持ちよく過ごそうと思いました』

タヒチトリップ 危機的状況から得たもの

Kanenari Sakamoto

今回のタヒチ旅行は、人との出会いと全てのタイミングが完璧で本当に恵まれた旅でした。 9泊10日の滞在の中で4ラウンドサーフィンでき、リーフブレイク、ビーチブレイクどちらも良い波あてて、気持ちの良いローカルの人たちと出会い、笑顔の絶えない日々。まさに理想的な旅だったと思います。 でも、旅の最後には予期せぬハプニングが待っていました。 最終日の夜11時、一緒に行った友人が宿泊先のデッキから足を踏み外し、落下して1メートル下のコンクリートに頭から落ち、僕が気付いた時には気絶して、イビキをかき、更に耳から流血している状態でした。 僕たちはパニックになり、友人が隣の家のドアを叩き救急車を呼んでもらい、搬送してもらいました。 フランス語圏のタヒチで、僕たちは言葉がほとんど通じず、救急車を呼んでくれた隣に住む優しいおばちゃん助けがなければ、もっと大変な状況になっていたかもしれません。今振り返るとおばちゃんは、もう就寝していて、着の身着のままで助けてくれて上はTシャツ、下はパンツ姿でした。 一度近くの病院に搬送せれ、ドクターチェックしたのですが、大きい病院での処置が必要とされ、また救急車で搬送してもらい、CTスキャンを取ることになりました。幸い脳にダメージは無く、ホッとしましたが、彼はまだ落下の衝撃で意識が朦朧としていて、記憶障害があったため入院することになり、彼の奥さんが現地に残り、僕たちは一足早く帰国することになりました。 心配ではありましたが、彼が無事に回復に向かっていると聞き、本当にホッとしました。 怒涛の最終日を終えて、飛行機に乗った途端に緊張が解けて、僕は離陸したのも分からないほど寝落ちしていました。 こうした大きな出来事があると、改めて「人生って何だろう」と考えさせられます。 良い事も悪い事も、時間が経てばすべてが勉強材料。 その出来事をプラスにするか、マイナスにするかは、自分の心の持ちよう次第だと思います。 今回のタヒチ旅は波、出会い、そして最後のハプニングを含めて、すべてが大切な経験でした。 人生において本当に大事なことは何か、答えは一生見つからないと思いますが、今ある状況に感謝して、楽しみながら生きる。 『一度きりの今の時間を気持ちよく過ごそうと思いました』

島が育てた感覚たち

島が育てた感覚たち

Kanenari Sakamoto

僕は今、10日間のホリデーでタヒチに来ています。 現地のサーフショップを訪ねたら、そこで出会った人たちが「一緒にご飯に行こう」と誘ってくれました。昼から仲間が仲間を呼び、自然に輪が広がっていく。ビールを飲みながら、彼らは「仕事はまた明日やればいい。今日はお前たちがいるから、一緒に楽しい時間を過ごしたい。何ならこの後サーフィン一緒に行こう」と言ってくれるんです。 タヒチは英語を話せる人が少なく、フランス語とローカルの言葉ばかり。 でも現地で出会ったおじさんやおばさんたちが、言葉が通じなくても僕たちを助けようとしてくれる。アウターリーフに行くためのカヤックレンタルだって、普段サーフィンなんて全然しない果物売りのおばさんが手を貸してくれる始末。もちろん見返りなんて一切求めず。 よく「旅先でぼったくられた」なんて話を耳にするけど、タヒチではそんな心配はいらないと思う。 ただただ、いい空気感が流れていて、まさにGood Island Vibes  その中で改めて感じたのは、遊びと仕事のバランスの大切さ。 昔から「遊ばざる者、働くべからず」という言葉がありますが、僕がタヒチで実感したのはこうです。 「十分に遊ばざる者、人生を終えるべからず」 遊びは贅沢じゃなく、人生を豊かにするための必須のもの。 サーフィンも仲間との時間も、その一瞬を心から楽しむことが、僕らのライフスタイルの土台になる。

島が育てた感覚たち

Kanenari Sakamoto

僕は今、10日間のホリデーでタヒチに来ています。 現地のサーフショップを訪ねたら、そこで出会った人たちが「一緒にご飯に行こう」と誘ってくれました。昼から仲間が仲間を呼び、自然に輪が広がっていく。ビールを飲みながら、彼らは「仕事はまた明日やればいい。今日はお前たちがいるから、一緒に楽しい時間を過ごしたい。何ならこの後サーフィン一緒に行こう」と言ってくれるんです。 タヒチは英語を話せる人が少なく、フランス語とローカルの言葉ばかり。 でも現地で出会ったおじさんやおばさんたちが、言葉が通じなくても僕たちを助けようとしてくれる。アウターリーフに行くためのカヤックレンタルだって、普段サーフィンなんて全然しない果物売りのおばさんが手を貸してくれる始末。もちろん見返りなんて一切求めず。 よく「旅先でぼったくられた」なんて話を耳にするけど、タヒチではそんな心配はいらないと思う。 ただただ、いい空気感が流れていて、まさにGood Island Vibes  その中で改めて感じたのは、遊びと仕事のバランスの大切さ。 昔から「遊ばざる者、働くべからず」という言葉がありますが、僕がタヒチで実感したのはこうです。 「十分に遊ばざる者、人生を終えるべからず」 遊びは贅沢じゃなく、人生を豊かにするための必須のもの。 サーフィンも仲間との時間も、その一瞬を心から楽しむことが、僕らのライフスタイルの土台になる。

人から人へ    ベニーとの出会いの続き

人から人へ ベニーとの出会いの続き

Kanenari Sakamoto

ベニーと出会ったあの日から、僕の中でひとつの考えが強くなっていった。 人は誰かのために何かをすることで、自分の人生も自然にリッチになっていく。 お金やモノに満たされる事じゃなくて、心の豊かさって、実は人に尽くすことでしか育たないんじゃないかって思う。 僕自身、サーフィンを通していろんな人とつながり、助けてもらったり、逆に助けたりしながら、気づけば人生がどんどん面白くなってきた。 それは「流行りに流される」んじゃなく、「自分が信じられるもの」を大事にしてきたから。 信じるものを長く使う サーフボードも同じ。 今の時代、次々に新しいデザインやブランドが出てくるけど、BeStokeではそういうスピードに合わせることはしない。 大切なのは「誰かが人生をかけて作った物や、自分が本当に信じられるものを長く使う」こと。 サーフボードはただの道具じゃなく、自分のサーフライフと一緒に年を重ねていく相棒みたいな存在だから。 BeStokeの想い 僕たちが届けるモノは、派手な流行よりも「本質」を追いかけている。 自然の中でどう波と向き合うか。 自分らしいスタイルをどう表現出来るか。 ベニーとの出会いから学んだこと。 「人を信じ、人のために動く」ことで、自分の人生は想像以上にリッチになる。 サーフィンも同じで、波と自然の波長に自分を合わせて、長く一緒に過ごしていく。 それがBeStokeのスタイルです。

人から人へ ベニーとの出会いの続き

Kanenari Sakamoto

ベニーと出会ったあの日から、僕の中でひとつの考えが強くなっていった。 人は誰かのために何かをすることで、自分の人生も自然にリッチになっていく。 お金やモノに満たされる事じゃなくて、心の豊かさって、実は人に尽くすことでしか育たないんじゃないかって思う。 僕自身、サーフィンを通していろんな人とつながり、助けてもらったり、逆に助けたりしながら、気づけば人生がどんどん面白くなってきた。 それは「流行りに流される」んじゃなく、「自分が信じられるもの」を大事にしてきたから。 信じるものを長く使う サーフボードも同じ。 今の時代、次々に新しいデザインやブランドが出てくるけど、BeStokeではそういうスピードに合わせることはしない。 大切なのは「誰かが人生をかけて作った物や、自分が本当に信じられるものを長く使う」こと。 サーフボードはただの道具じゃなく、自分のサーフライフと一緒に年を重ねていく相棒みたいな存在だから。 BeStokeの想い 僕たちが届けるモノは、派手な流行よりも「本質」を追いかけている。 自然の中でどう波と向き合うか。 自分らしいスタイルをどう表現出来るか。 ベニーとの出会いから学んだこと。 「人を信じ、人のために動く」ことで、自分の人生は想像以上にリッチになる。 サーフィンも同じで、波と自然の波長に自分を合わせて、長く一緒に過ごしていく。 それがBeStokeのスタイルです。